株式会社ヨシノ自動車

トラック業界”鍵人”訪問記 ~共に走ってみませんか?~ 第55回

鹿島旭自動車ボデー株式会社 原 秀雄、原 秀崇様

鹿島旭自動車ボデー株式会社 原 秀雄、原 秀崇様

「技術の継承で未来をつかめ!ボルボディーラーの実力はいかにして磨かれたのか?」

鹿島旭自動車ボデー株式会社は茨城県の鹿嶋工業地帯に本拠をおくボルボトラックの正規ディーラーです。敷地4000坪の整備工場をもち、ボルボをはじめ小型車から国産トラックまで充実した設備で架装や総合メンテナンスに対応します。同社は昭和21年に東京浜松町で自動車整備工場として始まり、移転と規模拡大を繰り返しながら現在に至ります。ボルボトラック日本導入の経緯や現在、今後の整備の未来について中西と語り合いました。そこには同業の士でしか語り合えない貴重な言葉がありました。

編集・青木雄介
WEB・genre inc.

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

原 秀雄(はら ひでお)
取締役会長。1948年6月15日生まれ。1967年3月 海城学園卒業。同年4月旭自動車ボデー㈱年入社。1975年9月 栃木旭自動車ボデー㈱に転勤。1980年3月同社代表取締役社長就任。1988年9月 鹿島旭自動車ボデー㈱に転勤。代表取締役社長就任。2016年10月取締役会長就任。現在に至る。

原 秀崇(はら ひでたか) 代表取締役社長。1981年生まれ。2004年3月 流通経済大学卒業。同年4月関連会社である旭自動車ボデー㈱に入社。2006年2月 鹿島旭自動車ボデー㈱に転勤。2016年10月 代表取締役社長就任。現在に至る。

特殊な車を造り上げるのが嬉しい

____まずはじめにボルボトラックの販売状況を教えてください。こちらの鹿島周辺ではどういったお客さんが多いんでしょうか。

原社長:この辺では主に海コンのお客様が多いですね。それと重量運搬系のお客様も多いです。大きく分けるとその二つです。

____シングルと2デフの販売バランスは良さそうですね。

原会長:ただ鹿島の需要の絶対数は少ないんです。課題としてマーケットを広げていかなければいけないんですが、この地区だけの販売に頼るのは厳しいですね。だから遠くだと九州の鹿児島や東北の山形や青森など、架装もふくめて全国各地のお客様に支えられています。

____どういった架装が多いのでしょうか。

原会長:例えば青森のお客様のキャリアカーのご要望ですと、その内容もフロントオーバーハングの極端に長い車両で、鋭角ターンを繰り返してもエアホースが絡まないような仕様を開発したり、我が社ならではの特殊性を持たせています。逆に言うと特殊性があって他にできない発想と技術を持つことが、その会社の存在意義につながると考えています。東日本大震災の際に、福島の原発事故で電源が喪失し、大災害に繋がりました。原子力機構では急きょ「電源車を引っ張れるトラクタを作ろう」という話になりました。難点はセミトレーラー仕様とフルトレーラー仕様の電源トレーラーがすでに存在していて、その両方を引っ張れるトラクタをとの要望でした。他の架装メーカーは断ったのですが、我々が造りました。私たちはお客様のご要望に応え、ご要望以上の機能を造り上げたときの大きな喜びを感じます。どうしてもノーマルを販売するだけになってしまうと、値段勝負のみの傾向になって面白くないですから(笑)。

中西:本当にそう思いますね。弊社も鹿島旭さんほど大きくはないですが、車両を販売しなくてもカスタムだけのお仕事が増えました。我々がカスタムの窓口になって重めの架装を鹿島旭さんにお願いしたり、そういう仕事も多くなってきました。

信頼性を得る以前のボルボを売るために

____そういった両社の協業傾向はいつぐらいからだったんでしょう。

中西:実際にお仕事をご一緒するようになったのは、この1年ぐらいでしょう。それ以前に会長同士の付き合いはもちろんありました。実際に架装のお仕事としてご一緒するようになったのはごく最近なんです。

____なるほど。

原会長:我々がヨシノ自動車さんとディーラー会で仲良くなった当時から考えると、ボルボは本当に良くなりましたね。この間、あるお客様にボルボを納車したんですが、その会社は10年以上前から何台かずつボルボをご購入されていて、他に多くの国産車もお使いになっていらっしゃる大手の運送会社様です。そして燃費や故障率、それとドライバーの評価をデータにして比較・検討して頂いた結果として、今後は年間計画の中に組入れて決まった台数を購入することになったとのお話を頂きました。大手のお客様に、これまでこんなに褒められることがなかったので嬉しかったですね(笑)。

中西:それは弊社の会長も同じ感想だと思いますね。私が入社した当時はボルボを納車へ行くのにその場でチェックランプがついていて、とんぼ返りしたこともありましたから(笑)。

原会長:我々はそもそもこれまで車両販売をしたことがなかったので、社長である私が責任を持ちますと言わない限り誰も信用して買ってはくれません。当時は営業に行き、その会社の社長と車両担当に名刺を渡して、「何かありましたら私が責任をもって24時間電話に出ます」と言って買って頂きました。「そうは言っても、まさかそんなにかかってこないだろう」と思っていたらバンバン電話がかかってきました(笑)。あの経験をしておいて良かったと思うのは、こちらは逃げ場がないですからきちんと対応しなければいけません。その対応をしっかりとっていることでこちらの知識も増えますし、すぐに電話に出ることが信用につながって自然と電話はかかってこなくなることが分かりました。その経験でボルボがどんな車かを理解でき、勉強になりましたね。当時は、トラブルの8割くらいは電話だけで解決できるようになり、あとが出張修理かレッカーでの対応でした。

分解整備するからこそエキスパートになれる

____その当時、ボルボの主要なディーラーはどうやって決められたのでしょうか。

原会長:もともとボルボは帝人が乗用車の輸入元になったのが始まりだと思います。トラックは1988年にいすゞと業務提携したのが始まりで、1997年に日本ボルボが新たなディーラー組織を立ち上げ、北海道の滝川自工さんや弊社、横浜の宇徳さん、名古屋の名鉄整備さんといった計12社を新規ディーラーとして契約しました。

____原会長がボルボディーラーを始めた頃は、ダイムラーはどうだったんでしょうか。

原会長:日本でボルボが販売を始めてから、ダイムラーは確か個人の会社が輸入し始めたんだと思います。しばらくしてふそうと提携し、その後コマツになり、ふそうを吸収して現在に至っています。ボルボもサービスの点では、拠点も少なく苦労したと思いますが、我々のような整備屋を使って良かったと思いますよ。なぜかと言うと現在の国産トラックは、エンジンなど故障するとほとんどリビルトパーツ(オーバーホール用のパーツ)に交換しておしまいですから。

____なるほど。

原会長:自分で分解して整備ということまではしないんですよね。ボルボのディーラーはエンジンもミッションもデフも、全部自分たちで分解修理をやるわけです。技術力も身に付くし、分解することによって車両の構造自体を知ることができます。内部を開けることでドライバーの使い方の癖や故障の原因も分かりますよね。ですから今までディーラーで車検や修理をしていたお客様が、弊社に持ってくるというケースも最近は多いんです。弊社では分解して、故障の原因を探って、使い方に問題があればアドバイスもできます。しかし現在のディーラー対応では修理したという事実で終わってしまうんです。それだと、なぜそうなったのか分からないし、対策の立てようがないですよね。

新しいパワートレインは手の入れようがなくなる?

____本当にそうですね。整備はこれから特定整備という新たな整備の流れが来ていますね。新たなパワートレインなど新たな流れについてお伺いしたいのですが。

中西:何度かお話している話ではあるんですが、この3年、5年で世の中のトラックが大きく変わるとは思っていません。10年以上、先を見越しておくことが必要だけれどディーゼルというパワートレインはしばらく変わらないだろうというのは間違いない。乗用車でさえまるごとEVに取って代わられるとも思っていないんです。トラックのスピード感は乗用車に比べてだいぶ遅いですからね。個人的にはだいぶ余裕を持って見ています。

____まだ時間はあるだろうということですね。

中西:そうです。まだ時間はあると思っています。仮にそうなったとしても設備が大きく変わるようなことはなくて、やることがなくなってしまうというリスクのほうが大きいのかなと思うんですね。我々は鹿島旭さんが手がけている重整備だったり架装をやるような土台がそもそもゼロなので、今後はそれを作り上げていくということが中期的な方針としてはあります。EVは多分、何もすることがなくなっちゃうんですよ(笑)。エンジンメンテナンスがモーターメンテナンスに変わるというような単純なものではなくて、モーターをメンテナンスすることなんかありえなくなってしまう。いずれ燃料電池かEVかに取って代わられるだろうとは思っています。その時代にはバッテリーもモーターもさらに進化しているはずなので、なおさらメンテナンスが立ち入る領域はなくなってしまっていると思うんですね。

____なるほど。

中西:だからこそアフターマーケットに関しては、変化の直前でも間に合うような気はしていますね。ただ鹿島旭さんのようなボデーの仕事はなくなりません。EVの冷凍車なんかも出てきてますけれど、ベースの冷凍機などは変わらないですからね。クレーンだったりトラックの主要な架装に関しては変わらないと思いますから。逆に言うと弊社は全くそっちに着手していないので、今後は自社で取り込むことをしていきたいと思っています。

どこまで損が出来るかが人を育てることに繋がる

____ノーメンテナンスになる、という予想はインパクトがありますね。

中西:私はこの件に関しては同業者とは違う考え方を持っているんです。エンジンの仕事がなくなったから新たにこの仕事を見つけるというような単純なことはできないと思っているんです。今までは A が B になった B が C になったという時代の流れだったと思うんですが、今後は A は A で終わってしまうんです。違うAが生まれてくる。そこで繋がりが生まれないんですね。

____だからこそヨシノ自動車が今後、ボデーの仕事に積極的に参入していくという話は興味深いですよね。ぜひ原会長のお考えもお聞かせください。

原会長:私は今後、生きていく道は二つに分かれると思っています。すごい設計力と発想力を生み出す道がひとつと、それを物として作っていく道がふたつめ。ここに下請けという関係が入ってくると、強い方が生き残って弱い方が死んでいくというデメリットしかない。だから両者はあくまでも対等の関係でなければならないと思うんです。弊社でも、再三そういうことが議論になるんです。煩雑な作業内容はいっそ外注に出した方が楽ですからね。確かに近視眼で見るとその方が便利です。それを自社でまかなうとなると設備投資も必要です。

____その通りですね。

原会長:そこの問題は人が育っていかないことなんですね。技術を継承していくことは、どこまで損ができるかということにも繋がるんです。つまり人を育てることは時間と経費をかけていかないとできないので、会社としてはやはり損になるんです。ただこれが出来てしまうと会社として他にできない強みにもなります。結局のところ、会社としてどちらの道を選んでいくかということだと思うんですね。

車街と呼ばれた新橋の原風景

____よく分かります。企業は変遷するものだと思いますが、鹿島旭さんはもともと東京にあったんですよね。

原会長:そうなんです。浜松町の方でやっていました。うちの親父というのは自動車大工だったんです。当時のトラックはキャブの骨組みも木だったんですよ。私は小さい頃を覚えていますが、お客さんが「もうちょっと屋根の丸みをつけてくれ」と注文すると、大工がその場で削って、それに合わせて板金屋は鉄板を叩いてそれを作る。そんな時代だったんですね。現在、東京ガスの現在の本社ビルは昔、整備課と言ったんですよ。あそこで東京ガスの車を一手に集めて板金塗装や車検などを行っていました。東京ガスのマークは星のマークだったので七星会という会があって、車の修理や車検、ボデーを修理する工場が7社あったんですね。それと近くの新橋は車の部品屋が集まる場所でした。そこで有名になったのが国際興業グループの小佐野賢治さんですよ。小佐野さんは部品商をしていたんですね。秋葉原が電気街で新橋は車街だったんです。

中西:なるほど。それだからでしょうかね。 整備の安全協会なんかも本部は新橋ですよね。浜松町です。

原会長:そうなんです。そこで500坪ほどの土地を買って修理工場していたのですが、東京オリンピックの3年前に首都高ができて、工場の半分を手放さなければならなくなりました。修理工場としてはどうにも手狭になり、有明に780坪の土地を購入し工場を作りました。結局は浜松町の工場を全部売って栃木に移転し、有明工場も結局は狭くなってしまったので、鹿島にやってきたというわけです。当時は鹿島工業団地ができて、どんどん大きくなっていきましたからね。鹿島に来て驚いたのは2 km 先は海ですよね。反対側は霞ケ浦や利根川がある。ここで車の商売が成立するか本当に心配になりました。(笑)。

トラックは安く買ったと言いたいもの!?

____川の真ん中、中州のような状態になっているんですね。

原会長:だからユーザーが遠いこととインフラが問題ですね。そもそも電車が通っていないですから。人口が圧倒的に増えていくこともない。反面、競争相手もいないんですけどね。私はあまり車を売らなくてもいいや、架装がしっかりやれればいいやと考えてきました。その代わりに、お客様から信頼をいただいて、その輪が広がっていけばいいと思っているんです。このエリアでは国産4メーカーさんがたくさん売ってますし、非常に狭いエリアなので全部筒抜けなんですね。だからどこで何をいくらで売ったかがすぐわかっちゃうんです(笑)。

中西:トラックは消費財なので どちらかというと安く買ったことを自慢したくなるんです(笑)。

原会長:私もだんだん分かってきたことなんだけど、高く買ったとしても「自分は高く買った」とは絶対に言わない。ゴルフの道具だって高い方が良いものの気がしますよね。ゴルフの道具を安く買ったと自慢する人はまずいませんから。

中西:そうなんです。弊社だとカスタムしていく人はいかにお金がかかっているかは大事なんですよね。「よくここまでやるよね」というのが逆に褒め言葉なわけですから。

原会長:ヨシノ自動車さんはそういう架装を積極的にやられてますよね。トラックショーに出したり、本当にすごいなと思いますし、これからはそういう架装もまた必要になってくるでしょうね。

乗るたびにテンションの上がるトラックを造る

____傍目から見るとヨシノ自動車と鹿島旭さんとの協業はとてもバランスが取れていて良いと思いますね。

原会長:商圏が重なっていないんですよね。得意としている架装の内容もバッティングしていないですから。

中西:弊社はどちらかというと鹿島旭さんにおんぶに抱っこという感じなのです(笑)。今でこそカスタムは全国的に行われていますが、同じディーラーの仲間でも「ヨシノさんがああいうカスタムやるから同じことができないか」と言われちゃうって愚痴を聞きますよ。ドライバーの横のつながりかもしれないけど「それが無理難題を言われる」って嘆いてましたね(笑)。

原社長:去年、浅井建材さんのトラクタを架装するのにお打ち合わせさせていただいた時のことでした。ヨシノ自動車さんは車を1台完成させる目線というのがすごく顧客に寄り添っているんです。もうひとつ何かを加えるにしても「こっちの方が恰好いいから」とお客様に勧めていて、我々としてはそういう感覚が今までなかったのですごく新鮮だったんです。架装は商用車として、機能として使えればという感覚があったので、メカニックの考え方もすごく変わったんですね。家が一軒買えるぐらいの金額がかかる中で、「乗る人が乗るたびにテンションが上がるようなトラックを作らなければいけない」という感覚を教えてもらったんです。

原会長:ボルボはやはり居住性やドライバーが乗ったときの満足感は圧倒的に違うので、ますますその傾向は強くなるでしょう。今後は黙っていても売れるようになると思っていますね。

新型FHに期待するのはやはりリジット

____ドライバーが求め続ければずっと売れ続けるというわけですね。

原会長:そうです。最近はとみに導入の年間計画にボルボを入れるというお客さんが増えてきたと思います。

中西:ボルボはこの10年で圧倒的に品質が良くなって、故障もしなくなりました。「最近よく見るよね」と反応が良くなってきたのが大手さんです。いま会長がおっしゃったように誰もがトラックに対して、安全性や居住性を求めるようになってきました。格好良さが先に立つボルボですが企業経営の中で、合理性のあるトラックとして認知されるようになってきました。これは大きいです。

____そうなるとシェアを拡げるためにも来年導入されるボルボには是非、リジットが欲しいですね(笑)。

中西:鹿島旭さんはリジットを販売していた当時、その割合は大きかったんでしょうか。

原会長:弊社はヘッドだけでしたね。重量の問題があったり、パレットが想定してるより載せられないとかであまり人気がありませんでした。

原社長:ただ来年の新型ボルボにもしリジットがあるようだったら是非、年間計画に入れて生産したいというボデーメーカーさんもいるようです。

中西:それは、こちらとしてもありがたいですね。大手メーカーさんが手がけてくれれば、あっという間に評判が広がるんです。そうなるといいですね。

原 秀雄(はら ひでお)
取締役会長。1948年6月15日生まれ。1967年3月 海城学園卒業。同年4月旭自動車ボデー㈱年入社。1975年9月 栃木旭自動車ボデー㈱に転勤。1980年3月同社代表取締役社長就任。1988年9月 鹿島旭自動車ボデー㈱に転勤。代表取締役社長就任。2016年10月取締役会長就任。現在に至る。

原 秀崇(はら ひでたか) 代表取締役社長。1981年生まれ。2004年3月 流通経済大学卒業。同年4月関連会社である旭自動車ボデー㈱に入社。2006年2月 鹿島旭自動車ボデー㈱に転勤。2016年10月 代表取締役社長就任。現在に至る。

1962年からの歴史と技術、未来への挑戦
鹿島旭自動車ボデー株式会社様

< 対談一覧に戻る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加